二次元論を超えると

”超える”なんて書くと仰々しいけれど、物事を二次元論の”良い・悪い”で判断をしなくなると、とても生きやすくなった。できていないことがあっても、それに「悪いこと」とか「だめ」というマイナスのレッテルを貼らなくてよくなって、そうすると、「治(直)さなくてはいけない」「解決しなくてはいけない」などと自分のこれまでを否定し、改善行動が必要であるという考え方をしなくてよくなるのだ。

それを解決しないのではない。解決を「するべき論」から脱出して、気楽に新しい行動を選択できるようになって、心への負担が減り、結果として、問題もとても早く解決できるようになるのである。

疲れること、嫌なこと、苦手なことなどを伴うことを「悪」とすると、その悪を排除しようとするけど、そうではなくて、その出来事は私に何を教えてくれているか?という問いに視点を変えてみると、排除以外の選択肢がとてもたくさん現れるのである。これを、タイトルでは”超える”という表現で表した。

”超える”と、心が軽やかになる。

二次元論からの脱却

2026年2月21日に土星と海王星が牡羊1度で合になった。その様子を私は、

”被害者と加害者がなくなる””被害者と加害者は同じ”

と訳しました。

この時、私の中で土星と海王星は、聖母マリアとイスカリオテのユダを当てはめていました。

土星は、子供(イエス様)を失った母であるマリア、つまり被害者で

海王星は、友人(イエス様)を結果的に「売る」形になったユダ、つまり加害者です。

被害者がいなければ加害者はいませんし、加害者がいなければ被害者もいません。こっちが無ければ、あっちもない、頭では理解できるのです。でも腑に落ちないというか、意味はわかっても心では納得いかないというか、そんな感じで「知っているけど、できない」みたいな状態でした。

それが、ここにきてようやく納得できるようになりました。

被害者と加害者という立場は変わらないかもしれませんが、そこから抜け出すことで、新しい未来に行けるということがわかったんです。それは被害者(加害者)をやめて、そこから学ぶこと。「良い・悪い」という判断をするのではなくて、そこから何を学ぶのか?ということに視点を上げれば、それで良いんだということにようやく気がつきました。

自分が被害者(加害者)でいると、いつまで経っても、起きた物事を「良い・悪い」で判断し、敵(加害者)を作り出して終わってしまうのです。要は二次元論。あっちが悪いから、こっちは受け入れるか、我慢するしかない、という解決方法です。

もしくは、被害者から脱却するために強くなろう、が目的となり、こちらは被害者の自分を否定しがちになる上、今度は自分が加害者の立場になってしまうのです。

なので、良い・悪いということは置いておいて、そこから何が学べたのか?を判断して、次の一手を打てば良いだけの話だと気がついたのです。

私はずっと「被害者」として生きてきてしまったな、と思いました。でもそれはネガティブではないんです。被害者意識にならないと、生きていけなかっただけなんだとわかりました。

そこから何を学んだか、、、。

被害者にならなくても、”私は休んで良いのだ、生きていて良いのだ”という気持ちを手にいれることが、ようやくできました。”頑張らなくても良いんだ”をようやく理解できた気がします。

・・・どうしても、母子(マリア・土星)は、その特性上、社会的に弱い立場に立ちやすく、被害者的位置に陥りやすいのですよね。二次元論だと。また、同様に先生的な立場(ユダ・海王星)は、加害者的立場になりやすい。

でも、その出来事を良い・悪いという選択問題で解決するのではなく、出来事から何を学んだ?という応用問題にすると、新しい世界が確かに開けるのでした。

私はずっと被害者でした。家庭で。だから、それが抜けなくて、社会に出ても被害者だったと思います。被害者の私が持ちえた解決方法は、「我慢すること」と「立場の上の人が目的としていることを理解してそれを達成すること」でした。

育った家庭で、私は自分の意見が言える立場では全然なかったのですね。でもだからこそ、他人が求めるものがよく見えるようになりました。

ただ、私はすでに大人だし、それに自分の意見が言えないという状況の家庭は、、、終わりました。その大元だった、祖父母の遺骨を共同墓地に入れ、自由になったのです。でも祖父母は加害者ではありません。もちろん、加害者的側面もありますが、前述したように多くを学べたし、それに、、、住むことができる土地を私に残してくれましたから。それには、とても感謝しています。

天使でも悪魔でも、どっちでもいい

私には、怖いものがあったんですよ。それは「蛇」。蛇と言っても、蛇そのものが怖いのではないんです。神社(神域)で蛇に出会ったりすると、「ああ、何かいいことありそうだな」と思うくらい、怖くなくて、むしろ良いシンボルとして捉えているくらい。

じゃあ、何が怖いのかといえば、それは「聖書」に出てくる「蛇」です。イブをそそのかした蛇。人間(アダム)が、神様(主)から楽園を追われるきっかけを作った蛇。

Aiで検索すると、、、

旧約聖書の『創世記』において、蛇はエデンの園で最初の人間であるアダムとイブ(エバ)を狡猾な言葉で惑わし、食べてはいけないとされていた「知恵の実」を食べさせた誘惑者として描かれています

私は、この蛇が怖いんです。さらにいうと、前述した通り、蛇そのものが怖いのではなく、蛇は”誘惑者=悪”だと、解釈する人たちが怖いのです。それもあって、私は「聖書」がめちゃくちゃ苦手です。

でも、気がついたんです。日本の鏡餅って、蛇がトグロを巻いている形なんですよね。日本では蛇は神聖視されていて、聖書の世界観とは真逆です。

日本語って、母音の発音なんですってね。他の国の言語は子音でできているのに。これも逆、というか違う。

他にも色々あったんですけど、聖書の世界観と日本の世界観ってあべこべが多いんです。

でも別に、どっちが「良い悪い」って話ではない。どっちもいいし、どっちもあっていい価値観なんですよね。蛇も「良いところ(神聖)」「悪いところ(悪魔)」があるってだけで。どっちもあるから蛇なんです。

そしたら、自分もどっちもあって良いんだ、良い方だけに偏らなくて良いんだとわかりました。

悪魔って天使かもしれない。だって、聖書だと蛇は悪魔だけど、日本だと蛇は神様の使い(天使)だもの。

どっちでも良いのよね。天使でも悪魔でも。両方あって「自分」なのだ。

2026年 蟹サインの宇宙

蟹サイン(2026.6/21-7/22)

目の前の相手のために何ができるのか?

それを自分の中でしっかりと認識するとき。相手のために行動するとき、その行動の本質は自分のどんな気持ちから出ているのかをちゃんと見つめたい。

それは善意から?それとも悪意から?

相手の成功を心から応援しての行動?

自分の失敗を隠すため?それとも!?

天使的な気持ちだったら、それをそのまま実行に移せばいい。

悪魔的な気持ちがあっても、そこをちゃんと見つめて、気づいて手放せばいい。

※ちなみに、悪魔って悪魔じゃないこともあるんだよね。天使も同様に。

今の時期は赤の他人というより、家族や家族のようなコミュニティ(チーム)のような親密な関係の人たちとの交流で、それ(相手のために何ができる?)を理解していく流れ。

残酷というか、ドローとしたモヤっとした感情が流れ込んで、ハッとするかもしれない。ネガティブな感情かもしれないけど、でもそれが大事で、気づきを得てポジティブもしくは中庸に変換を促すことになるので、怖がることはない。

母親のような自分達を見守ってくれる存在からのアドバイスがその流れをサポートしてくれる。自分では思いつかないような感情を伴った深い考察がもたらされるので、どんな感情でも蓋をせず慌てないで向き合いたい。

そうすれば、家族や仲良しの友人たちとのとても楽しい充実した時間が得られる。無から有を生み出すようなキラキラした時間を、親しい間柄の人たちだけで通じるような特別なコミュニケーションを通じて存分に楽しむことができるようになるから。

それは、個人個人が心の奥底で望んでいる行動(状態)で、深いところにある願い。だから、気づきにくいけど、一人ひとりが取るべき行動から直結している。

そしてそれは、個々それぞれが持つ身体的個性や才能を活かせるチャンスとして、ふっとやってくる気配です。

自分と相手がどっちが良くてどっちが間違っている、という不毛なやり取りを終わらせるための期間。自分のいいところを相手から切り離して考える時。「自分」とは違うけれど、”仲良しだから””家族だから”という理由で、相手に合わせて自分のいいところを封印していたら勿体ないの。相手と違うことをするのは悪いことじゃない。それが個性であり、才能になる。仲良しだったら、いつも一緒、じゃなくて、一緒にいても別なことをしてもいいし、一つの目的達成のために、それぞれを才能を活かした別な「仕事」があるというこということを認識していい。

◾️キーワード

仲良し/その人に合わせたコミュニケーション/

創造性/夢を気軽に捉える/

最短で夢が叶うと信じる/

母性を忘れない(慈しみの心を持つ)