心を整える

わたしは天使が大好きです。姿は見たことないし、声も聞こえないけど、それでも天使が大好きです。もっと大きく広く書けば、シンプルにスピリチュアルなことが好きなんだと思います。

子供時代を完璧に過ごして大人になった人っていないと思います。なんの淀みもない両親から生まれ、何の問題も抱えない家族で、学校生活も順風満帆。魂を削るようなことは何もなく、一点の曇りもなく大人になりましたー、なんて人。

もちろんわたしも完璧とは言い難い幼少期・少年期を経て青年期になり、成人したわけですが、、、。

過去、働いて数年経った頃でしょうか。加藤諦三先生の著作をたくさん読んだ時期がありました。わたしの完璧とは言い難い子供時代をとても癒してくれたので、たくさん読んだのですが、その中で、ずっと?マークだった見解があります。それは(わたしの解釈になりますが)、「日本にもキリスト教が浸透すると良い」というような意見でした。

わたしはイエス様が大好きだったのですが、かといってキリスト教徒なわけでもなく。家も普通の家庭で、特段どこかの宗派に傾倒するでもなく、正月は神社に初詣に行くよ、死んだらお墓だよ、くらいで、宗教(スピリチュアル)に関してはかなり軽い感覚の家で育ち、好き以上に何かするわけではありませんでした。

こんなふうに育ったわたしは、大人になってからのこういったスピリチュアルに関しての価値観が、日本の八百万の神様という概念いいよね、至る所に神様いらっしゃって、安心よね。という感覚を採用していて、イエス様は大好きでも、キリスト教の一神教、絶対神のあり方には正直それほど魅力を感じていませんでした。

八百万の神様で大満足だったわけです。

だから、先に紹介した加藤先生の意見には「?」が点灯して生きていました。

それで良かったはずなんです。なんとか生きていけてた。でもダメになったんです。それが子育てをしてからだったんです。

子育て前のわたしの価値観は、幼少期から過ごした家庭で育まれた価値観です。それはわたしの意見というよりは、「母や父の意見を踏襲したもの」でした。これは星読みを深めていく上で理解したことでもあります。

その価値観のもと、子育てを進めるのですが、どうしても解決できない問題が出てきました。それが、子供の病気(アトピー)との向き合い方でした。

どの親もそうだと思うのですが、子供が病気で苦しんでいたら助けたい、と思いますよね。助けようと色々勉強をすると、おそらく多くの人が「病気の元はお母さんです」というフレーズに出くわすと思います。

病気を治すために生活習慣(食事や睡眠・運動などの生活の質)を改善し、病気の根本からなおそうとしますが、それだけではダメで、心=精神も治さないと完治はしない、と書かれています。そして、心はお母さんから来ていますよ。お母さんの心の問題をお子さんへ持ち込んではいけませんよ。という、「子の病気は親から」という解釈が、一人ではなく、複数の方が様々な本で紹介しています。

こうなると、わたしはもうお手上げで。

なぜなら、わたしも子供の時、喘息・アトピー持ちで、高校生の時に完治しますが、それに苦しんだ経験があるからです。それだけでなく、大人になってからも、そこそこ厄介な病気にわたしは見舞われています。

つまり、病気になる「種」をわたしは母(家族)の生き方から、すでにもらっているんです。

わたしはこの種をこれ以上子供に渡したくないんです。でもどうやったら渡さなくて済むのかわからない。心=精神の整え方がわからないんです。

母(家族)の教え、つまりこれまでの経験では、その答えを出せません。

ぶっちゃけ、物理的な面は非常にわかりやすいのです。ちゃんとした食事をとること、運動すること、ちゃんと寝ること。これは比較的わかりやすい。体質によって差はあると思うけど、それでも正解が見える。

でも、精神を整えるって?どうしたらいいの?何を治したらいいの?って。瞑想?内省?でも正解が何なのかわからない。見えない。

そうすると、見えている正解までも、うまくまわらなくなる。心がぐちゃぐちゃで、食事や運動などの生活習慣に、正解を持ち込めなくなる、夜もよく眠れない、、、。

それでようやく気がついたのが、これ、

「薬で抑えても意味がないよ、根本を治さないとね」

わたしの場合のアトピー(病気)の「種」はこの考え方(言葉)だったの。

薬はだめ、副作用もあるし。根本を治さないと。わたしは幼少期、喘息のために薬をいっぱい飲んでいたの。毎晩2種類。発作が起きるとそこにプラス4種。もう薬は飲みたくないの。子供にも飲ませたくない。本当は。

でもね、子供がアトピーで痒くて身体を掻いているのを見るのが辛いのね。薬なしで治せるのだとも思う。そして、そうすることで子供も子供の身体も健やかになるんだと思う。

でもね、わたしが救われなかったの。薬で生きながらえたわたしを否定しているってことだったの。ごめんね。薬とわたし。つまり、わたしの身体ね。ごめんね。

さらに、

「ああ、わたしの薬への頑ななまでの否定で、子供をここまで辛い目(痒くてよく眠れない)に合わせたんだな、わたしのダメなところだったんだな」ってわかった。

もちろん、薬を飲み続けていいわけではないと思ってる。ちゃんと根本を治さないとね。ただ、心を整えて完治させるにあたり、自分の頑なさ・意固地さみたいなものは、余計現状を拗らせるだけなんだと思った。

薬を否定しなくてもいいよって。薬という選択肢を消す必要はないよって。わたしの場合、薬を否定すると、自分の身体を否定することになる。そして、それを飲ませた母や幼少期の家庭環境を否定すること、その時に培った八百万の神たちへの安心感までも否定することになっていたのね。だから、とても辛かったのね。

子供にアトピーの塗り薬と飲み薬を使ったよ。みるみる良くなってびっくりした。夜も寝入る前に痒そうにしていたのがピタッと止まった。薬の効果はすごいね。わたしが「安心」して子供の横で眠ることができた。

これに気づけたのが、天使のおかげだったの。自分の不甲斐なさが、本当に苦しくて、子供が痒がっているのに、自分の精神を整えることがぜーんぜんできなくて、、、天使に心を整えてくれるよう、助けをお願いすることにした。

天使にお願いしようと思った時、頭をよぎった。

失恋して、苦しすぎて、自己啓発・スピリチュアル系等の本を読んで心を癒していた時、母にその本を捨てられたことを。それは、わたしが心の拠り所にしていた天使の本だった。

わたしは「母」を捨てた。家族も捨てた。わたしはわたしの「好き」を信じた。だって、もう限界だったから。

これまでの価値観じゃ、わたしの心を保てなかった。

「捨てた」よりも「超えた」の方が表現としては正しいかもしれない。

ここで、加藤先生のいう「絶対神」の存在が浮き彫りになった。先に進めなくなった(家族を信じられなくなった)時、それ以上の存在を拠り所にする必要があるんだと。

わたしは天使を通じて、絶対神にお願いをしたんだと思ってる。

2月20日。

海王星・土星が牡羊で合。そして、太陽が水瓶から魚サインへ入った。

新しい価値観の世界線に入った。

新しい価値観を持ち込む勇気を。見えない世界へ敬意を。

太陽の出力を調整する月

外に出ているとき、私たちは主に太陽星座を使っている。家に帰ると、その太陽の出力を月を反射させて使っている。

これは、月が夜に一番よく見えるから。多くの人は太陽が出ている昼に外で働き、月の出る夜に家に帰るから、このように解釈している。

月というのは満ち欠けする。新月から上弦、満月、そして下弦になり、また新月へ戻る。この満ち欠けの形が出力の状態に影響する。

満月はまんまるで明るい。完全無欠でまるで太陽。いつもキラキラ輝いている。永遠の繁栄を約束できる家が創られる。

新月はうっすらと影を感じる。静かで優しく出しゃばらない。しっかり休息を促すことができ、今日あった嫌なこともいいことも全てを飲み込み、全く新しい明日へ続く希望を渡してくれる。

満月へ向かう途中の上弦の月は、「満ちる」に向けてパワーを充電できる。今日がどんな一日でも、明日の希望を見出すことができる場を生み出すことが得意。明るく飛び出すようなパワーを与えられる。

新月へ向かう下弦の月。これまでの成果を糧に新しい世界を創造する力を持つ。一日で学んだことをしっかりと受け止め、明日へ繋ぐ道に落とし込める優秀なスキルを持っている。落ち着いた安心感のあるパワー。

こんなふうに自分の生まれた時の月の形は、家での自分の光の作り出し方に影響をする。

わたしは太陽が獅子で月は山羊、月の形は「上弦」。だから、獅子サインの自立のパワーを山羊サインの種の力に変換して、明日への希望に繋げることができる。

もう少しわかりやすく書くと、今日できたことを認めて、明日の小さな一歩を見出すことが、家でできる。ということ。これは自分にもそうだし、パートナーや子供にもそれを渡すことができる。

わたしは月が、5ハウスという喜びを表す領域にあるので、小さな一歩は「喜び」に向かうためのものでもある。

この文章を読んでくださった方へ。わたしは、自立に向けた喜びの種を渡せる人。きっと、小さい一歩だけど、素敵な未来への一歩が見出せるはずです。

大袈裟にしない

最近になってようやくわかったことがある。大難を小難にするメリットに。若い時は大きな成果を上げることに憧れがあったから、何でも大きくしたいという欲求があった。

でも、年齢を重ねて、恋愛も仕事も体調も、酸いも甘いも、を多少経験してくると、「大袈裟にすることのデメリット」にものすごく目が行くようになって、大きな成果より、日々の小さな積み重ねの方を大切にしようと、自然にそう思うようになった。

もちろん大きな成果は大切だ。でも、その大きな成果は、大きくなるまでの道のりがとても大切なのだ。手っ取り早く「大きな」成果を手に入れようとすると、土台が適当になって、大きな成果を手にしてもすぐに崩れてしまう。最悪、その崩れを回収できるだけのスキルが自分に整っていなくて、The ENDになることだってある。

わたしはこれを「病気」で体感して、取り返しがつかなくなる前に、ちゃんとした方がいいんだなと当たり前に思った。

そもそも、わたしが大きな成果を必要だと思い込んだことも問題だ。わたしがそう思ったのは「父がそうだったから」なのだ。

父は「稼がなくてはならなかった」。それが父の至上命題だったと思う。まあ、わたしは父ではないいので、父自身がそう思ったかはわからないが、わたしからみた父の行動はそんな感じだった。

40代で半身不随で働けなくなった自分の父(わたしにとっては祖父)と母を養う必要があったから。もちろん、自分の家族(母・わたし・妹)も当然に養う必要があるため、とにかくお金が必要だったと思う。朝から晩まで働いていて、家にはほとんどいなかった。

そのことを長女のわたしへは、進学や就職などの折々に、暗に示唆していたと思う。で、わたしは父が好きだったので、それに対して不満も何もなかった。生き方はそうやって選び、学んだと思う。

それでいうと確かにわたしは「お金」という大きな成果を手に入れたと思う。自慢できるほどではないが、生きていくだけの困らない稼ぎ方(働き方)とその使い方を学べたから。

でも一方で、そのお金の成果は、わたしのやり方ではなかったのだ。

それは父の稼ぎ方であったのだ。

父のやり方で稼ぐと、男の身体(肉体)ありきのやり方になる。女の身体を持つわたしにはきつかった。独身でかつ若い時はまだ良かったけれど。これじゃないんだ、と病気になってはじめて気がついた。

(もしかしたら、父のやり方でもなかったのかもしれないけれど、父も平均年齢よりもかなり若く亡くなったので。)

それで今は、自分の身体や性格、持っている能力にあったやり方を模索している。そして、大きな成果じゃなくて、自分の成果を探してる。

まずは「大袈裟にしない」ということ。だってわたしには、養う必要がある祖父母はもういないのだ。父よりスピードを落としてなんの問題もないからね。

大袈裟にするのは、木星が得意。大袈裟にしないのは、土星が得意。

土星が牡羊サインに最近移動した。未知の世界へいくときに、スモールステップを意識して、何度も何度も小さな一歩を踏み出す勇気を使うこと。これが今は大事だね。

勝ちたい

わたしは天秤サインに強い部分がある。火星と冥王星が天秤サインにいるのだ。6度違いで、合に近い。だから勝ち負けにこだわるというか、”人によく見られたい=スマートでカッコよくいたい”という気持ちになりやすい。3ハウスにあって、ICの近くにあるので、”そう思ってしまう”という感覚になる。

これは欲望としてあって、無くそうとしても無くなるものではない。感受点がここにある以上、勝ち負けになんて拘らないわ!と宣言してみたところで虚しいだけなのである。あるのにない、としていると、あることに気づいてもらおうと頑張るから、もっともっと強い欲望として現実世界が形成されていく(笑)。

ただ、私は勝ち負けで勝つことが嫌いだった。負けることは、当たり前に嫌いなんだけど、勝つことも嫌いだったのだ。理由は、子供の頃の経験にある。勝つと近くの人は、喜ぶよりも嫉妬するのだ。勝つと大人は喜ぶけれど、子供、つまり友人はあまり喜ばない。同じ立場、レベルと言っていいかな、そこにいると思っているから、賞賛を浴びる立場に自分が同等かそれ以下だと思っていた人が立つと、嫉妬されていじめられるか、場合によっては無視されるかなどになる。勝っても寂しい思いをすることが多かった。

これも、今ならわかるんだよ。わたしがそうだったからなんだよね。私が本当は「勝ちたい」し、「友人とも仲良くなりたい」から、いじめられたし、無視された。

わたしが友人に嫉妬することももちろんあって。わたしの方がふさわしいと思っている場所に友人が立つと、本当に悔しいのだ。わたしでもよかったはずなのに、なんでわたしじゃないんだって。で、自分がそこに行けるように頑張ればいいんだけれど、その頑張りを友人を陥れるという行為で叶えようとしてしまう。そっちの方が手っ取り早く自分の欲望を満足させられるから。「陥れる」ここまでやる人は少ないかもしれないけど、「負け惜しみを言う」と言うことは、これにあたる。

自分が負けた、という精神的ダメージを、勝った友人を下げることで、自分を持ち上げ、欲望を叶える。浅はかなんだけれど、そうしてしまった。ごめんなさい。と今は思う。当時も気づいていたけど、気づかないふりをしていたんだと思う。

これはイソップ物語の「酸っぱいブドウ」の話に出てくるキツネそのものだ。あんまり気持ちの良いものではない。でもあるんだよね。わたしの中にあのキツネ。

キツネはどうするかな?ブドウをもう一回とりに行こうかな。今度は知恵がついて、道具を使ったりできるし、ブドウに手が届く仲間に、鳥とかね、お願いすることだってできるから。わたしの過去で言ったら、鳥に「わたしもあのブドウが食べたいよ、わたしの分も取ってくれない?」って言うのが正解かな。

取れたとしても、本当に酸っぱいブドウで食べれたもんじゃないかもしれないんだけどさ。でもその結果はどうでもいんだよね。それよりも、気持ちのいい形で、欲望を満足させられる勇気が大事で。この時の勇気って、自分ができないことをできている人がいるという現実を受け入れて、それが欲しいなら、人にちゃんとお願いする勇気を持てること。

落ちる勇気と人にお願いする勇気。

前者は自分の中で腑に落とすこと。後者は明るく気軽に出していこと。

これができたら、もっと生きやすくなるんだけどなって、思って頑張ってみる。そしたら、勝てるからさ。自分の欲望にね。勝ちたいのよね。わたしね。

月は満ちる

月は満ち欠けする。だから、かけた部分のことを「隠れる」と私は表現している。反対に、全てが満ちる瞬間もある。それは、隠れるところがない、隠すところがない、あけっぴろげ、みたいな感じで、私は解釈している。

衆議院選挙の結果が出て、ようやくひと段落した感じがする。昨日、無性に疲れているなあ、と思ったのだけれど、選挙の影響もあったのかな、と。世間は結構選挙で盛り上がっていたというか、殺伐としていたように思う。街に出れば、選挙カーが大声で宣伝をしているし、家にいても選挙カーがやってくる。テレビをつければ、選挙。ネットも選挙で盛り上がっていたと思う。

これ、「戦いくさ」なんだよね。現代のね。そりゃ、疲れるわ、、、。と、ようやく気がつきました。

夜中に目が覚めて、ふと窓の外を見たら、綺麗な月があってね。下弦の月で、新月に向かっている。これから、変容のターンに入っていくから、、、もれなく何かが変わるんだろうな。

私は、月が嫌いだったのよ。不安定だから。気持ちがいい時はいいけど、悪い時、最悪だし。いいと悪いを行ったり来たりするのが嫌だったの。

一番嫌だったのは、「自分」じゃなくて「おかあさんの感情(=月)」に振り回されるのが嫌だったんだなって、今ではわかる。子供の時はみんながそうなんだってことは理解できるよ。自分よりおかあさんの感情を優先する。

今日は家で遊びたいな、って思っても、おかあさんに「子供は外でお友達を遊ぶのが一番いいの」と何度も言われ続けると、おかあさんの顔色(感情)を伺って、自分のやりたいことを諦める。

思春期になると、そこでちゃんと反発ができて、自分の感情(月)を優先させて、自分のやりたいこと(太陽)を使っていくことができ、それが自立になるんだと思う。

私はこの自立が上手にできなかったな、と今でも思うし、もしかしたら、ずっとこれは残るのかもしれないな。

私の場合ね、今思うと、反抗ができる家庭ではなかったのよ。前にも書いたけど、父は単身赴任でいないし、祖父は半身不随でお世話必須の生き方で、祖母は家事が上手にできない上、嫁いびりはしてたし、そこで生きている母は常に感情が非常に悪い感じになっていたよ。

私が反抗すると、母はより悪い感じになるだろうから、その選択肢は子供の私になかったんだろうな、と思う。この生き方、つまり他人の感情を悪い方に刺激しない、という術は、社会に出てからも抜けなかったから、ほんと、厄介は厄介なのよ。

それがすごく嫌だったんだけど、最近ようやく、母の月(感情)の尻拭いをやめよう、と思い、それを行動に移すことができて、自分の月(=感情)を好きになれてきたと感じていてね。

具体的には、ご飯を作ること。前は、老齢の母を気遣う食事ばっかり気にして作っていて、つまり母の顔色を伺っていたんだわね、夫や息子(小学生)のご飯は後回し、、、。

育ち盛りの子供の食事と老年の母の食事は違うんだ。それ、母もやってきたんだから、大変なこと、知っていることなんだけどね。

母は「気にしなくていいよ」って言うんだけどね、しなくていいとは言わないし、行動には移さないよ。ここが母親のずるいところだな、と今でははっきりわかるよ。ほんとに、子供のことを考えていたら、口だけでなくて、行動で示すんだよ。「受け取らない」っていう選択を行動で示すの。でもそれはしない。罪悪感はあるんだと思う。だから口だけはいう。

でも、私も悪いんだ。嫌なのに、ご飯を作っていたからね。だから、もうやめた。ものすごく罪悪感を感じたよ。最初はね。でも今は、罪悪感もありながら、自分の月(感情)が安心しているのがわかるの。母の感情の受け皿をやめたら、自分の感情を受け取れるようになったからだと思う。

まあ、その罪悪感も人としては、必要なものなんだろうな。ブレーキとして。必要以上に人を壊さないための。そして、この罪悪感、私は宗教的な思想から発すると思っているよ。おかあさんを大切にしないとダメですよっていう、宗教的な思想。宗教とは上手に付き合えるといいな。

自分の月がわかると、満ち欠けも大丈夫なんだよ。人のじゃないからね、下がっているなら、下がっているなりに対処できるんだね。発見だったわ。

隠れても、あけっぴろげでも大丈夫。

傷があったとしても

傷ができたら、できてもいい。人間である以上、完全無欠なんてあり得ない。

だからと言って、自分を始末に扱っていいわけではない。

また、わざと傷つけるつもりで扱うのも違うし

かと言いって、傷つくのを恐れすぎることも違う。

でも、その匙加減はわからない。傷つけているつもりはないけど傷ついていたり、つくはずのない傷を恐れていることもある。

月は無意識で発達する。それは、生き方をすぐそばの母親ないし、保護者から引き継がれるということ。だから、知らないうちについた傷は、代々受け継がれてきてしまった傷である可能性が高い。

そのまま傷ついていてもいい。

その傷を癒そう、と決めてもいい。

自分の無意識を探っていく強さがあるなら、傷を癒せる。

自分の月を覗くこと、そして、最終的に取り除くこと。

これができるといいと、私は思っているのだけど、月(母親)と向き合うのは非常に難しい。

自分のために、必要なものを買ってはいけない。

これは、私の中にある、無意識の傷。

私は、好きなものを買っていい。

私の母は、いつも私か妹の使ったものを使っていた。それが私に写っている。

それを母が前向きに使っていたのならいい。向き合うと、違うんだ。

単に、お金が減ってくのが怖かったんだ。貧乏は嫌だったのかな。

私も、ひもじいのは嫌だよ。きっと誰でもそうだろうけど。

私の場合、買えるのに、買わない選択をする。これがとても辛い傷になっている。

月は隠れる

一つ前のブログの流れから、日本の神話からもう一つ。月詠(ツクヨミ)のお話。

月詠は隠れちゃうのよね、嫌なことがあって。(あ、もしかしたら、普通はアマテラスって認識かも。)天岩戸閉めちゃってね。篭っちゃう。そうすると、世界が真っ暗になるのね。

まるで、子供が自分の部屋に閉じこもって、誰も入ってこないでってするみたいに。

子供がそうなると、お母さんも場合によっては悲しくなっちゃう。家の中で、母性性が隠れちゃうと、じめーとして、みんな楽しくないのよね。父性性が輝いていてもそれを受け止める月(母性性)がジメジメだと反射しねえのよ。

神話では、岩戸の前で、裸踊りやらなんやらで、無理やり楽しくお祭りして、戸を無理やりぶん投げて、引っ張り出してって、、、なんとか無理やり出て来させることに成功する。

でも、個人的には、、、あまりいただけない。

戸を開けるまでは、まあゆるそう。そこから出てくるのは、月詠次第にして欲しいかな。要は、月詠の気分に合わせるっつうかさ。大体、そこまで拗れてると、最初に閉じこもった理由なんて?なのよ。そこから出てくる時には、いろいろな手があっていいのよ。

・・・まあね。その方法の一つが”無理やり”だったんだろうな。

月のパートナーって「冥王星」なのよね。星読みだと。だから、冥王星の爆発的パワーで月を優しく出てこられる案を提案できまくるのよ。冥王星ってカオナシみたいな感じで、なんでもできるの。

戸を開けっぱなしにしてほっておく/おいしいにおいを充満させお腹を空かせる/遊園地に誘う/ダメだけど、お金で釣るってのもあるか、、、

どれを月(母性性)が採用するかはわからないけど、気持ちよく母性性を発揮できる世の中になるといいよね。

月詠が嫌だったことは、好きな人にされてとても悲しかったことなんだよ。好きな人は良かれと思ってやったんだけどね、それで傷つくこともあるよね。

それが完全に癒えることはないかもしれないけど、それを認めて前に進むことはできるよ。そして、隠れながら=立ち止まりながら でもいいんだよ。