スピリチュアルに興味があってもなくても一度は聞いたことがあるはず、「堕天使ルシファー」。神様の隣にいて、最も輝いていた天使だったけど、傲慢、、、自分が神様になれると思い込んで、神様との繋がりを断ち、堕落した存在と私は理解していた。私がその存在に気づいたのはいつだったのかわからないけど、子どもの頃だったことは間違いないかな。
私は、一般的に「ダメだよ」と言われていることは、ダメと理解し、真面目にそれをしないようにする性質を持ち合わせていると思っていて、ルシファーの堕天物語に関しても、そうならないようにしてきた。
私が理解しているルシファーの堕天物語はこうだ。神様の隣にいて最も輝かしい存在だったルシファー。神様から、堕天した存在を天に戻すように役目をいただいた。その役目を果たす中で、「自分なら神様になれる」と思い、結果自分が堕天した。
「自分が誰よりも一番になれる」ルシファーはそう思ったんだろうか?私は「一番になれる」と思うことは悪いことじゃないと思う。結局、その思いがどこからきているのか、動機が最も大切なのであって、動機が素敵なものならば何も間違いはない。
ルシファーは『神よりすごくなれる』と思ったんだろうか。堕天を本当にしたのならば、本当にそう思ったんだろう。じゃあ、動機はなんだったんだろう。
その動機を私はようやく理解した。
ルシファーは堕天しているように見えていた。
でも、神様と一対一の関係において、ルシファーは一度も神様と離れたことがなかった。
ルシファーを含め、神様以外は、ルシファーと神様は切れていると見えていたと思うけど、神様からはずーっとずーっと見えていた。誰にも見えない細い細い細い頼りない糸で。
ルシファーは自ら地獄に堕ちた。動機は、、、
「神様から授かった役目を果たすため」
輝かしい姿で、堕ちた存在を戻そうとしても、これっぽっちもうまくいかない。少し考えればわかる。自分が何かしようとしてうまくいかないとき、不貞腐れる時がある。不貞腐れている時に、人生がうまくいっている人に「いいこと」を言われたら、嬉しいというよりは、ほっといてほしいとか、余計なお世話だよ!とか、反発しかしない。そのいい言葉がどんなに正しいことであっても、受け入れることが難しいんだ。
そして、自分と同じようにうまくいっていない存在とつるむ。そして、その存在の言うことを聞いてしまう。仲間になってしまう。深く深く入り込んでしまうと、どこかで抜け出した方がいいことがわかっていても、なかなか抜け出せなくなってしまうんだ。
だからできるだけ浅い段階で、いいことを受け入れた方がいいんだけど、できない。受け入れられないのには理由がある。個人的には、自分の「惨めさ」を受け入れることがなかなかできないからだと思った。自分のやりたいことができなくて、できている人を見ると、どうしようもなく自分が惨めになる。神様はどうして自分にその輝きの場を与えて下さらないのか。。。
困っている人を本気で助けたい時、外から助けようとしても助けることができない。内に入るしかないんだ。
溺れている人を助けたい時、陸から「こっちに来れば助かるよ」といくら叫んだところで、その人は助からない。誰かが水に入って助けなければ溺れている人は助からない。
ルシファーはきっとこう思った、
「堕ちた存在を天に引き戻すには、自分が堕ちないとできないんだ」
それがつまり、周囲にはこう見えた
「ルシファーは自らが神様になれると思い込んだ」
周囲からは完全にルシファーが堕ちたとしか見えなかっただろう。そうしなくちゃ堕天した存在はルシファーを信じない。
でも、最後にルシファーは気がつくんだ。
輝かしい存在の状態でも助けることができたんだって。
ルシファーは「堕ちることは悪いこと」って思って堕ちないようにしてきたけど、その考え方自体が「堕ちている」。
その「堕ちることは悪いこと」を自分が持っている限り、堕ちた存在はそれに反発する。輝かしい状態のままでも、堕ちることは悪くないってわかれば、輝かしい姿でもみんな理解してくれる。正確に書けば、伝えたい存在が受け入れることができる状態まで自分の輝きを調整することができるようになるんだ!
悪魔はいる。でもそれは自分が悪魔にしているだけで、誰かが悪魔なわけじゃないんだ。
ルシファーは神のそばに戻ったという。本当だと思う。
完全無欠の世界へようこそ。きっとこれが弥勒369の世界だと思う。